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statement(Ja)
絵画というものは行為という一面において素材を塗りつぶして(覆い隠して)、その上にさらに別の物語を描く、というものだ。
だが果たして覆い隠したものの上に新しい物語を紡ぐ行為、それが絵画の本質なのだろうか。
絵画は時折「別のどこかに開かれた窓」や「鏡」などと例えられる。 「歴史」や「真実」も同じように「窓」や「鏡」に例えられるだろう。
世界中の様々なところで「真実」をそれが全てのように物語る行為が溢れている。 絵画も同様の行為なのかもしれない。
そうなると絵画に意味があるのだろうか? 「真実」の物語の多くは伝聞、創造の産物で、体験、経験という一次情報とは必ず乖離する。 「真実」との乖離が致命的になる場合も多いが絵画については乖離が新しい世界を開く場合があるように思う。
そこで私は思う。世界は「」付きの言葉で溢れている。
そうであれば私は「」そのものを描きたい。と。
振り返ると初期の作品は「半具象(≠半抽象)」+「未視感」のような絵画を描いていた(象徴がどうの、イメージとアイコンがどうのと難しいことを並び立てていた)。
時にホームセンターで得られるものを支持体に、模型屋で得られる塗料(この時のテーマは作品の表面性とフェティシズムだったように思う)を使って描いていた。
「絵画」を使って「絵画」を語るにはどうすべきか? 今思い返すとそういう試みをずっと続けていた。
その試みは変化し、やがて「絵画の解体」となった。 まずは「物質性の解体」としての厚みを排除する作品、そのあとは描かれた「絵画そのものの解体、再構築」を試みる作品となった。
今作っているのシリーズは「絵画の関係性の解体」、すなわち支持体を用いず。絵の具だけで絵画を作るシリーズだ。
美術史の中絵画に不可欠な関係性と言われており、その関係性を断つことで見えてくるものはあるのか?を問う作品です。
私の描く絵画には内容が無い、それは結局のところ塗り潰してまで描く必要のあるような「物語、あるいは真実」が見出せないからだ。
「物語、あるいは真実」は作品を見た方々の中に時に乖離し、作者の意図とは離れて、全く新しい「物語、あるいは真実」が芽生えるそれこそ目論みの中心にあるもののように思う。
一つの要素だけで成立する絵画、それを今しばらく試行して思考していきたい。
2024/10/31
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